取材日:2023/7/29(月)
笹生川ダムは真名川ダムの上流、真名川の右支・笹生川の上流に位置します。ずっと行きたいダムの一つでしたが、普段は天端が立入禁止のため森と湖に親しむ旬間の見学会を狙って行くしかありません。しかし、1回目は息子が車に酔って笹生川ダムの手前で断念。2回目は土砂崩れで当日になって通行止になってしまい、以降なかなか行けないまま数年が過ぎ、さらにコロナ禍を経てようやく訪問することが叶いました。
国道157号と県道230号の交差点
ようやく笹生川ダムを見学できることに心と胸を弾ませつつ向かいます。国道157号と県道230号の交差点には案内看板も立てられていました。
笹生川ダムに到着
笹生川ダムに到着。さっそく受付を済ませます。
堤体へ向かいます
受付を済ませ、ある程度人数がまとまったところで堤体へと移動します。管理所から堤体までは少し離れていますので徒歩で移動します。下の写真はその移動中に見える堤体上流面。
クルマでの移動中も不思議に思ったのですが、右岸ダムサイトは不思議なスペースがあります。
その不思議なスペースの横には貯水池へと続く階段があります。察しの良い方はすでにお気づきかと思いますが、以前はここに管理所がありました。ダム便覧の写真にその在りし日の管理所が写っている写真が掲載されていますので、一度見比べてみると良いかもしれません。
普段は天端は立入禁止なのですが、見学会のこの日だけは特別です。開門されて自由に見学できるようになっています。
まずは笹生川ダムの基本的なスペックや目的をご説明いただきました。小さいパネルには笹生川ダムの目的に「上水道用水」と書かれているのに、大きな看板の方にはなぜか書かれていません。実はこのダムでは昭和54年(1979年)に、灌漑用水容量の一部を、上水道用水の容量に振り替えられています。この振替は他のダムではあまり見られないため珍しいのではないかと思います。
その後、天端に移動しつつゲートピアに掲示されたグラフ「洪水調節図」を見ます。笹生川ダムでは計画高水流量470㎥/sのうち、330㎥/sの洪水調節を行います。緑色の部分がダム湖に貯留する容量になりますね。
笹生川ダムのクレストゲートにはローラーゲートが備えられています。この日はイベントということもあり少しだけ開けてあります。ゲートは名古屋造船株式会社(のちのIHI愛知工場、現在は閉鎖)による製造です。
クレストゲートの機械室(ゲート巻き上げ機室)の写真です。
ゲートピア上部にある機械室は見学コースに含まれていませんので、写真を掲示していただける配慮にとてもありがたく思います。
クレストゲート越しに余水吐きトンネル用放流ゲートを見ます。これが何なのかは後ほど。
恐らく竣工間もない頃だと思われるゲートピア上部の写真も掲示されていました。なんと建屋がなく剥き出し。豪雪地帯ではなかなか考えられませんが、今では立派な建屋が取り付けられ管理も随分と楽になったんじゃないかと思います。
笹生川ダムは真名川総合開発事業の一環として建設されましたが、雲川ダムと中島発電所も建設され、それぞれを導水するためのトンネルも建設されました。
笹生川ダム・雲川ダム・中島発電所の間を結ぶ導水路トンネルの断面を示した構造図も描かれていました。落差がとてもわかり易い。
天端や左岸周辺をチェック
天端から先発隊の参加者のグループを見ます。人があんなに小さい。
左岸へ
左岸には取水塔が設置されています。ここから取水された水が中島発電所まで送られ発電に利用されます。
左岸の奥には「萬霊碑」という石碑が設置されています。職員さんに「あの石碑は慰霊碑ですか?」と訊いたところ「慰霊碑ではない」とのことでした。
石碑上部に書かれている「小沢区」とは福井県旧西谷村にあった集落の一つで、西谷村そのものは三次にわたって挙家離村を経て完全廃村した自治体です。その中の小沢という集落は笹生川ダム建設に伴い第一次離村と呼ばれる最初期に離村した集落です。第一次離村には小沢以外にも上秋生(かみあきう) ・下秋生(しもあきう)・本土(もとど)という集落が離村しています。
その萬霊碑はいわば離村記念碑ともいうべき石碑です。なお、第一次離村の人々は大野市木本原、同千歳、南春日野といった地域に移転しているようです。中には福井市に移住した人もいるようです。
参考文献:奥越山地における西谷村の完全廃村への過程
その萬霊碑の向かいから見る取水塔と堤体上流面です。この日にしか見ることが出来ない景色です。
たぶんフロート(浮桟橋)だと思われるものが左岸に置かれていました。
左岸から見る天端。これも普段は見ることが出来ません。
笹生川ダムは本当に山深いところにあります。豪雪地帯でもありますので、前述の西谷村の資料を読んだとおり、生活はさぞ過酷だったことでしょう。それでもコンクリートそのものは凍害の影響を見せつけず、60年オーバーの堤体とは思えないきれいな状態です。よほど建設当時の施工や日頃の管理が良かったのでしょう。
左岸側から放流している水は、もともと排砂管だったもので、現在は河川維持放流用に活用されています。そこから放流されている水の影響からか、下流の土砂が右岸よりに溜まっているのが面白いですね。また、副ダムが無いように見えますが、断面図を見ると4mのものが設置されているようです。かなり低いため沈んでしまっています。
いよいよ堤体内へ
いよいよ堤体内へと入っていきます。
ついにガフの扉は開かれた。
監査廊の壁面は木の板で型枠をつくっているため、その板の痕跡が見受けられます。プレキャストできれいに施工される現代とは全く異なりますが、往時を忍ばせるこの荒々しさがまた味があってとても良いのです。
最初に案内されたのはゲート室でした。前述の河川維持放流用(旧排砂用)のものです。パンフレットにはリングフローゲートと書かれていますが、リングホロワゲートともリングホロワーゲートとも呼ばれるものです。(とあるサイトにはジェットフローゲートとの記載もありましたが、どちらが正しいかはよくわかりません)
ものすごく年季が入ったこちらは堤体の歪(ひずみ)を計測するための装置です。こうした年代物の装置があちこちにあり、今でも現役で使われていました。
監査廊は涼しいのですが漏水が多めなのかやや湿度が高めでした。そのため機器も錆びてしまうのでしょう。
蹴上の高さがかなり高く、いかにも古い時代の監査廊の階段という感じです。1段1段ゆっくりと登ったり降りたりしなくてはなりません。
揚圧力を測定するためのブルドン管。
地震計は比較的新しいものが設置されていました。
ついに下流側へ
その後堤体下流面にある監査廊出入口から出て、ついに堤体を下流から仰ぎ見ます。一緒に参加された方もみんな一様に「おぉ~」と声が漏れてしまいます。記念写真用に「笹生川ダム」と日付入りで書かれた看板も設置されています。記念写真は職員さんにとっていただけますがサービス精神旺盛!
堤体の大きさと人物の比較用の写真です。なんて人類はちっぽけなんだ。
そしてさらに下流へと突き進みます。歩きやすいように草刈りがされているようです。職員さんに感謝感謝🙏
笹生川ダムを訪れたら必ず見ておきたいもの。それがこの余水吐トンネルです。前述のクレストゲート越しに見ていた余水吐きトンネル用放流ゲートの出口側になります。
笹生川ダムではダム地点での計画高水流量は470㎥/sのうち330㎥/sを調節するという計画でしたが、昭和40年(1965年)9月の奥越豪雨の際に、この計画を大きく超える1,002.3㎥/sという洪水量が貯水池に流入。ダムの天端と旧管理所の間の隙間を洪水が流れ出て、ダム右岸の斜面を流れていくという、堤体越流を引き起こす寸前というか引き起こしかけるところまで来たそうです。
堤体越流が起きるというのは洪水をコントロールするすべを完全に失うことを意味し、さらには堤体が決壊する危険性があったとも言えます。
そこで放流能力を増大させるべく、昭和48年(1973年)6月に、この余水吐トンネル(パンフレットには「排水トンネル」と記載)の工事に着手し、昭和52年(1977年)10月に竣工します。ちなみに、この工事は戦後初のダム再生事業となったそうです。
再び堤体内へ
下流側の見学をひとしきり終えて、再び堤体内へ戻ってきました。下の写真は漏水量を計測するための三角堰です。
堤体内のここだけ凸状になっています。説明を聞いたような気がするのですが、なぜだったかすっかり失念してしまいました。やはりすぐにメモは取らないとダメですね。ここに排砂管があるからだったと思いますが…
うーん、この管もなんだったか忘れてしまいました💦
また時代を感じさせる機器を発見。「CHINO TEMPERATURE RECORDER」とありますので、チノー社製の温度記録計のようです。
途中で奥越豪雨について解説していただきました。放流時の写真も掲示されていましたが、「凄さ」よりも「ヤバさ」が伝わる写真です。
昭和40年奥越豪雨 笹生川ダム洪水調節実績図
そしてそのヤバさを数字で伝えるのがこの洪水調節実績図。右の文字で書かれた経緯も当時の切迫した状況が手に取るようにわかります。写真だと読みにくいと思いますので、テキストにて引用させていただきます。
概要
- ダム監視所職員数 6名(所長含む)
- 能郷白山から荒島岳の一線に固定した集中豪雨(局部豪雨)
- ダム地点連続雨量:1,044mm、日雨量:844mm(9/14)
- 最大時間雨量89.5mm、最大流入量1,002㎥/s、最大放流量586㎥/s
- ピーク水位EL.529.42(サーチャージ水位8cm下がり)
※参考 現計画 治水安全度:1/50 基本高水:470㎥/s → 140㎥/s
経緯
- 昭和40年9月14日は朝からかなりの雨が降っていて、16時には累積雨量が100mmを超えた。
- 21時になっても雨は強さを増し、ダム下流で地滑りが発生し、事務所が停電(時間最大雨量89.5mmを記録)
- 23時過ぎに、洪水調節のための放流量やゲート開度の計算を終えたが、中島発電所からの連絡で「配電盤室が浸水寸前」、「河川に近い中島の民家が流失直前」、「放流は是非待ってほしい」との連絡がある。
- 24時には、最大流入量1,002mmを記録、1時間に1.7mの水位上昇
- 15日2時頃、「もうこれ以上は放流開始を延ばすことは出来ない」と県庁へ連絡した直後、中島発電所より「発電所は浸水したため、全員退避する」、「中島の住民も全員避難を終えた」旨の連絡が入ったため、2時20分に放流を開始した。
- 5時頃、何度もゲート操作を繰り返し、流入量と放流量がほぼ等しくなった。
- ピーク水位は、EL.529.42でサーチャージ水位との差はわずか8cmだった。(ダム天端標高 EL.531.0との差は約1.5m)
淡々と事実のみが書かれていますが、それだけに当時の逼迫・切迫した状況がつぶさに伝わってきます。ちなみに「2時20分に放流を開始した」と書かれていますが、これは異常洪水時防災操作(いわゆる緊急放流)であり、2024年5月現在、福井県内で唯一実施された操作になります。
また、西谷村では真名川と雲川の洪水に留まらず、木落谷・鎌谷・楮谷(こわぞだに)にて山体崩壊や土石流が発生します。これにより中島集落(現在の麻那姫湖青少年旅行村がある辺り)では86戸が埋没し流失家屋58戸を数える被害が発生。中島集落には西谷村役場がありましたが、1.8mの浸水被害に加え土砂にも埋まってしまいます。中島集落より下流の上笹又集落でも40戸中21戸もの家屋が流出し16戸が埋没してしまったそうです。
これだけの建物の被害にも関わらず、死者1名、重傷者1名、軽症者2名と人的被害が比較的少なかったのは、西谷村では洪水時には高台にある専光寺というお寺に必ず避難するよう徹底がされていたからだそうです。なお、亡くなられた1名は、忘れ物を取りに自宅まで戻りお寺に戻る途中で土石流に巻き込まれてしまったそうです。
このエピソードは災害大国日本において語り継ぐべき内容だと思います。ダムはほとんどの洪水をコントロールすることができますが、時として災害級の豪雨には対処しきれない場合があります。ダムは避難するまでの時間を稼ぐ能力はあっても、万能ではないということを認識した上で、すぐに高台などに避難するという意識を常に持つことで、ハードウェアとソフトウェアの相乗効果が狙えるものなのです。
こうして笹生川ダムによるギリギリな洪水調節によって避難する時間を確保したことと、西谷村の住民の防災意識の高さによって、ここまでの被害に抑えられることが出来ました。が、残念な事にこれがきっかけで西谷村は廃村の運命を辿ることになります。
余水吐トンネル用放流ゲート
堤体内での見学を終えて案内されたのは余水吐トンネル用放流ゲートでした。たぶんここも普段は立入禁止だと思われます。ちなみにこのゲートの敷高はEL.521.00m、堤体のクレストゲートの敷高はEL.523.00mmと本体よりも2mだけ低い位置にあります。なぜそうなっているのか質問しそびれてしまいましたが、恐らくすぐ排水することで、堤体側の負荷を減らすためなんじゃないかと思います。
ちなみにゲートの操作の順番としては、堤体のクレストゲートが先で、余水吐トンネル用放流ゲートが後なんだそうです。
下の写真をご覧の通り、水がクレストゲートに届いていません。なので真ん中のゲートを開けられるんです。
平常時はこんなに静かな湖面ですが、自然は時として猛威をふるいます。
余水吐トンネル用放流ゲートには幅9.1mx高さ8.888mローラーゲートが2門備えられています。
梁があるせいか吸い込まれる感があまりありません。
水が流れるところを見てみたいですが、その時はガチでヤバい豪雨の時なので絶対に見ることは出来ないでしょう。ゲート敷高に水が届いているので開ければ流れますが、この日は下流で見学会も行われていますしね(笑) …しかしこれが使われないことの方が絶対良いので、点検などで水を流すときぐらいに留めておきたいですね。
上の写真が見える場所のそばには竣工記念碑が建てられていました。
余水吐(排水)トンネル内部の写真が掲示されていました。これはまさに職員さんにしか見られない光景。
至って普通のローラーゲートです。しかし堤体側のクレストゲートは淡い水色なのに、なぜこちらは真っ赤なのでしょう。
艇庫
続いて余水吐トンネル用放流ゲートから艇庫を見学させていただきました。艇庫は比較的新しいので管理所の建て替えと合わせて建てられたように見受けられます。
インクラインに載せられていたのは笹生丸というボート。流木などの回収作業用っぽいですね。
こちらはさそう号。
再び福井県笹生川ダム監視所へ
ひとしきり見学を終えて監視所に戻ってきました。暑い日でしたが中には見学者用に麦茶が用意されていたのはとてもありがたかったです。
監視所入ってすぐの場所に土木学会推奨土木遺産の認定書とレリーフが飾られていました。笹生川ダムは3次元的応力解析法によってダム本体の構造設計が行われています。技術的な詳細についての解説はかなり難解なので割愛させていただきますが、これによって安全性を確保しつつ堤体積を最小化することができ、工費も節約できたのだそうです。それを実現化させた本邦初のダムということで令和2年(2020年)に土木学会推奨土木遺産に認定されました。
また、その安全性は奇しくもその後の奥越豪雨で実証されることになります。
監視所内の1Fの休憩スペース?しか入ることが出来ず、実際の執務スペースには入ることは出来ませんでしたが、こうして写真で紹介されているのは配慮なのでしょう。これもまたありがたいですね。
ダム周辺散策
確か右岸側の道路にあった中島発電所の基準点。測量などに用いられているものだと思います。(←あまり良くわかってない)
笹生川ダムの右岸道路脇には謎のコンクリート製の遺構があります。ケーブルクレーンによって打設されていたようですが、ケーブルクレーンにしては位置が低いので、プラントの一部でしょうか?
その脇にある倉庫。左上にコンクリート遺構が見えます。
他にも謎な遺構がちらほらと見受けられます。
その謎はまた別の機会があれば職員さんに伺ってみたいと思います。
国内では珍しい利水容量の振り替え、余水吐トンネル増設という戦後初のダム再生事業、日本初の三次元的応力解析法を用い、福井県初の異常洪水時防災操作の実施…と数々の金字塔を成し遂げた笹生川ダムでした。
笹生川ダム諸元
所在地 | 福井県大野市本戸 |
河川名 | 九頭竜川水系真名川 |
目的 | F(洪水調節、農地防災) N(不特定用水、河川維持用水) W(上水道用水) P(発電) |
型式 | G(重力式コンクリートダム) |
堤高 | 76m |
堤頂長 | 209.8m |
堤体積 | 225,000㎥ |
流域面積 | 70.7km2 |
湛水面積 | 234ha |
総貯水容量 | 58,806,000㎥ |
有効貯水容量 | 52,244,000㎥ |
ダム事業者 | 福井県 |
本体施工者 | 熊谷組 |
着手年 | 1952年 |
竣工年 | 1957年 |
ダム湖名 | 笹生川ダム湖 |
その他の設備/所感
駐車場 | ◯ |
トイレ | × |
公園 | × |
PR展示館 | × |
釣り | × |
展望台 | × |
コメント