取材日:2014/04/20(日)
この日、丹波地方のダム巡りの最後となったのがこの長谷大池でした。長谷大池はかんがい専用のアースダムで下流には田んぼが広がる典型的な農業用のダムであり溜池です。しかしその建設は現地の石碑から苦労の歴史が垣間見えます。そしてこの長谷大池もまた太平洋戦争により建設に影響を受けたダムでもあるのです。
長谷大池記念碑(知事阪本勝書)
以下はその現地の碑文そのままです。
本区域内を貫流する河川の流水は山岳急峻にして源に近き為降雨ありても一時の出水に終り常時用水に乏しく井堰溜池等の水源も規模の狭小により常に用水の不足を招来し旱天三十日に及べば給水能力は全く停止するの状態で年々の旱魃被害は平均一割二分で千五百石余の減産を続けて来たのである偶々昭和十四年夏当地方を襲つた旱魃は当地区に於て田畑六百十二町歩に亘り米換算五千石に達する甚大なる被害を齎せり茲に於て村当局並びに関係住民は一体となり旱害に対する恒久対策を要望し松山豊次郎細見盛太郎原田重助津田由太郎等代表となり政府に陳情全土に亘る旱害対策総合樹立計画に依り山東南部用水改良事業計画を決定昭和十六年七月山東南部耕地整理組合を設立仝年九月農林省の許可を受け溜池築地工事及幹線水路を兵庫県営に依り明年二月工事に着手した恰も大東亜戦争は愈々激烈を加え労力資材の不足により昭和十九年四月決戦非常措置令によつて事業計画を縮小次いで昭和二十年四月戦争の苛烈化によつてついに中止昭和二十一年十二月戦争の終結に依つて再び当初計画による工事継続に決定再着手となつた尓来敗戦直後の混沌たる世相の中に物価は高騰を続け資材の不足等幾多の苦難に直面し其都度計画変更が行はれて当初百四万円の予算から一躍一億五千九百十万円の巨額に達し其間工事施工者たる中村組も極めて悲壮なる決意を以て多大の犠牲を拂ひ事業主体も耕地整理組合から国領村に更に昭和二十八年土地改良区へと遷り荊棘苦闘の道を重ねる事業に前後十七年の歳月を要して溜池工事は完成した累積した障碍に依つて難航を続けた此の世紀の大事業も農林省及兵庫県当局の熱心なる指導と旧国領村並に合併後に於ける春日町各機関の撓まざる努力によつて関係住民の理解と協力が得られ終に竣功し永遠に旱魃の恐威から救はれた事は地方発展の為極めて欣幸とするところである
長谷大池記念碑(原文ママ)
茲記念碑を建てその梗概を刻み後世に之を傳へる所以である
昭和三十二年八月 山東南部土地改良区理事長 原田重助
ちなみに天端は残念ながら立ち入りが禁止されています。
堤体下流面を見る
さて、長谷大池の下流面です。実にのどかな雰囲気です。
左岸駐車場
長谷大池は右岸にゴルフの打ちっぱなし練習場があり、貯水池に向かって打つスタイルのようですが、この時すでに営業はしていないようでした。なぜか左岸から見た練習場の写真を撮っていないことに気が付きましたが、半ば廃墟のようだったと記憶しています。
左岸より余水吐を見る
長谷大池の余水吐はアースダムによくある側水路方式となっています。写真右側にトンパックが積まれていますが、右手奥にある左岸の法面が崩れてしまって仮復旧させた後でした。まだ花びらが残っていた八重桜がキレイですがなんだか痛々しいですね。
貯水池の奥にチラリと見えるのが長谷大池釣り池センターでヘラブナやワカサギが釣れるようです。
丹波の森の看板とベンチ
あとになって気がついたのですが、左岸には堤体が望める高台があり東屋もあるようです。
八重桜
八重桜もキレイですが、堤体もキレイに草刈りがされているようです。立入禁止なのが残念。
春日水上ゴルフセンターの看板と余水吐
前述のゴルフ練習場は春日水上ゴルフセンターと言いますが、なかなか味のある看板です。営業はしていないはずですが、看板はそのままになっているようです。
石碑から苦労の跡が垣間見える長谷大池でした。
長谷大池諸元
所在地 | 兵庫県丹波市春日町国領 |
河川名 | 由良川水系国領川 |
目的 | A(かんがい用水) |
型式 | E(アースダム) |
堤高 | 22.1m |
堤頂長 | 228m |
堤体積 | 207,000㎥ |
流域面積 | 2km2 |
湛水面積 | 5ha |
総貯水容量 | 483,000㎥ |
有効貯水容量 | 435,000㎥ |
ダム事業者 | 兵庫県 |
本体施工者 | 中村組 |
着手年 | 1942年 |
竣工年 | 1957年 |
ダム湖名 | 長谷大池(ながたにおおいけ) |
その他の設備/所感
駐車場 | ○ |
トイレ | ○ |
公園 | ○ |
PR展示館 | × |
釣り | ○(長谷大池釣り池センターでのみ可) |
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